惑溺

単発のSSです。

「なあ、家出しようよ」
 僕の友達は、唐突にそう言った。
「家出?」
「そ。オレたちもう高校生だぞ? 広い世界を見に行こうぜっ」
 何を訳の分からないことを言っているんだ、と僕はため息をつく。そもそも、もう高校生といったって世の中じゃまだ子供側。どちらかといえば、まだ高校生、と言うべきなのではないだろうか。
「おいっ、何だよ、そのさめた顔はさあ。どうせ、オレがまた考え無しで無責任なやつって思ってるだろ!」
「そこまでは思ってないよ」
「ちょっとは思ったのか! ひでぇ!」
 酷いと言いつつ彼はけらけら笑う。僕がどう切り返したものか悩んでいる間に、今日の夜に駅で待ってる、と言い残してさっさと行ってしまった。僕のコミュニケーションはいつもこんな調子で、押しが弱いからかすぐ相手のペースに呑み込まれてしまう。彼と話していると、なんだか急流下りでもしているような気分にさせられるのだった。
 その後。夜になるまで考えに考えたけれども、結局僕は彼を放っておくことができなかった。言われるままに駅へ来てしまったのである。けれど出発する前に引き留めるつもりだ。荷物は最低限しか持っていない。スマホと、彼とお揃いで持っている鈴付きキーホルダー。荷物と言うよりは持ち物と呼ぶべき身軽さだった。
「お! 来たな!」
「おい。本当に行く気なのか? 家出なんて考え直……わっ」
 僕が言い終わらないうちに彼に無理やり手を掴まれる。突然のことに驚いて、用意した言葉を全部忘れてしまった。何か言わないと、どうにか説得しないとと気ばかり焦っているうち、僕はいつの間にか電車に乗せられてしまっていた。改札通ったっけ。
「……切符は? 僕、買ってないからな?」
 そう言うと、彼は大丈夫、大丈夫とへらへら笑ってみせた。
 駅を出てからの彼は、普段よりさらに饒舌だった。世間話も少しだけしたけれど、思い出話の方が圧倒的に多かった。今まで一緒に遊んだこととか、お揃いのキーホルダーのこととか。そうしてひとしきり思い出を遡ると、途端に彼は静かになった。
「どうしたんだ?」
 今更家出を後悔しているのだろうか。それならそれで、大ごとにならないうちに帰れるから良いのだが。
「……オレは本気だよ。本気でお前と家出する——ああいや、いっそのこと、オレは元の場所にかえっても良い。だけどお前だけは絶対に、あっちにはいかせてやらないからな」
「は? 急に何を……」
 速度が緩やかに落ちていく。そろそろ停車するらしい。
 それを悟ると、彼はいきなり座席の横の窓をがらりと開けた。涼しい夜風が肌を撫でる。
「見ろよ! 景色がキレーだぞ」
 言われて外を覗き込むと、
「え……?」
 そこには星空が広がっていた。街も何もない、空だ。おかしい、さっきまで確かに地上を走っていたはずなのに。
 僕が窓から身を乗り出して面食らっていると、彼は何も言わずに立ち上がった。僕は横目でそれを見ていたけれど、それよりも景色が気になるからと目の前に集中していた。
 その時、背中に強い衝撃を感じた。ぐらりと勢い良く重心が前に移動し、窓枠を越える。突き落とされたのだ、と気付くには数秒かかった。彼が押したのか。何故落としたのか。何も分からない。真っ白な頭には、怒りも悲しみも浮かばなかった。
 落下と共に僕の視界もぐるぐる回る。ちらりと列車が見えた。
 窓枠の中、小さくなっていく彼の顔は、なんだか悲しそうだった。

 目を覚ますと、僕は白い部屋にいた。独特の清潔なにおいが鼻をつく。部屋の中にはベッドがたくさん並んでいて——あ、ここって病院か。
「……病院?」
 ぼうっとしていた頭の中から記憶を取り出す。確か僕は、彼と電車に乗っていたはずだ。車窓から突き落とされて……それから何があったのだろうか。もしかして誰かが病院に運んでくれたのかと思ったが、僕の身体には傷一つなかった。しかしあんな高さから落ちて、怪我一つないなんてありえないだろう。そんなぐあいにぐるぐる考えていると、医者が入ってきた。
「ああ、目が覚めたか。調子はどうだい? 息苦しいとかないかい?」
 息苦しいか、とはどんな質問だ。落下してきたのだから、聞くとすれば「身体が痛くないか」とかだと思うのだが。
「なんでそんなことを聞くんですか?」
 僕が問うと、医者は怪訝な顔をした。
「いやいや、なんでも何もないだろう。きみ……溺れていたんだから」
「——え?」
 溺れていた、とは一体何のことだ。僕が戸惑っていると、医者はサイドテーブルに置いてある新聞を指さした。見出しには『友人を助けるため川に飛び込みか。少年、意識不明』とあった。
「これ、一昨日のだよ。きみのことが載ってる。目が覚めて良かったけど……もう無茶はダメだからね」
 医者はそれだけ言って出て行った。
 もっとよく新聞記事を見ようと僕が身を乗り出すと、ポケットの中でチリンと音がした。なんだろうと探ってみる。
 それは、彼とお揃いにしたはずの鈴のキーホルダーだった。けれど、記憶の中のそれよりも少しだけ錆び付いているように見える。鈴は僕の手の中でころころ転がると、もう一度チリンと鳴った。寂しそうな音だった。